お気持ち日記

お気持ちを書きます。

作中倫理の設定について

お疲れ様です。

たなみです。

 

 

 

こどものじかん』という作品がある。

 

 早熟な少女が受けがちな、性的なからかいに対する厳しい視線。児童の問題行動や低い倫理観は、児童自身の問題より劣悪な家庭環境に由来しがちという指摘。子供を支配しようとすることは虐待であり断じて許してはならないという真っ当な倫理観。

 オタクメディアでは性的な部分がピックアップして紹介されることが多かったように思うが、内容については興味深い洞察が含まれた良質な作品だった。作者は元教員という話を聞き、なるほどと感心した。

 

 ぼくはこの作品が苦手である。どうということはない、些細なホモフォビアをネタにした、というのがその理由だ。

 人によっては気にならないだろう。ぼく自身、もっと劣悪な倫理観で他者の人権をないがしろにする作品を楽しんでいたりする。作品自体を糾弾する意図はそんなにない。*1

 子供と性的マイノリティという違いはあれど、彼らの権利は人権という概念で同じ箱に入っている。その中の1つを上げて1つを下げると、作品の倫理的な基準がわからなくなり、ノれなくなる。権利について大きく取り上げていると「そもそも倫理観の低い作品だからこれでよい」と開き直ることもできないし、単純に作品の主張がぼやけてしまう。テクニックとして気を配ろう*2、ぐらいの話だ。

 

 

 

さて。

『幻想再帰のアリュージョニスト』という小説がある。

https://ncode.syosetu.com/n9073ca/

 

異世界転生とサイバーパンクとオカルトパンクとその他いろいろなものを闇鍋にした、みたいな作品だ。

その魅力について具体的に語る能力も気概もないので、気になる方は適当に調べてください。

 

 

『アリュージョニスト』の世界は、現実と異なる力学が働いている(呪術という)。例えば「価値」「認識」「文脈」が戦闘力に直結する。「自分には価値がある。負けられない理由がある。俺はお前より強い」といった宣言を行い、それが(対戦相手、オーディエンス、世界に)認められれば本当に強くなる。仮に認められなくとも自分が信じてさえいれば自己バフがかかる。逆に自分でも信じきれなかったり証明できなければ力は弱まる。こういった観念の上書き合戦は『アリュージョニスト』の醍醐味のひとつであるが、この設定のため、やたら極端な思想をもったキャラクターが登場する。

 

「我が妻よ、淑女にしてやろう――陰核及び小陰唇を切除した後、陰部を針と糸で縫合して封鎖するのだ。当然の処置を何故してこなかった? 己を恥じろ」

 

                                                                                        4-23 欲望の在処

 

「ふしだらな魔女め。これほど大量の男に隙を見せるとは、なんと破廉恥な女だ。英雄の妻としてあってはならぬことだぞ――教育だ、徹底的な教育が必要だ。野蛮な地上の文化に染まりきった奔放な雌を貞淑な正しい女にしてやれるのはこのイアテムをおいて他に無し!」

 

                                                                                        4-23 欲望の在処

  

 『アリュージョニスト』では、性と暴力がテーマの一つになっている。家父長制。男根主義。女性蔑視。伝統。異文化。「男は女より優れている。男の中の男、真の男である俺は誰よりも優れている」という信念で強化された敵と戦うことになる。

 彼らは女性を肉体的に、精神的に、性的に支配し隷属させようとする。このことについて『アリュージョニスト』ではどういった倫理感の線を引いているだろうか。

 

「がるるるる」

 

「何をやってるんだお前、失礼にも程があるぞ」

 

「だって、この糞ビッチがアキラくんを誘惑して! ていうかアキラくんは反省しつつ死んじゃえ! 最低! けだもの! 盛りのついた犬! 万年発情期とかもうお猿さんだね!」

 

「どっちだよ」

 

 ていうか猿だって色々なタイプがいるだろ。ボノボとかは擬似的な交尾をして緊張をほぐしたりするらしいけど。

 

「女王権限で命令する! 今度こそ去勢! 去勢です!」

 

 ガロアンディアンの女王としてそれはどうなんだ。

 暴君というか暗君になるぞ。

 内心で忠告すると、少しだけ大人しくなる。

 

                                                                                            4-2 風の吹く丘

  去勢(つまり男性器の切除だ)して「勝手に発情しないよう」コントロールしようとするトリシューラに対してシナモリアキラが反省を促すシーンである。*3それに続くシーンとして以下がある。

「トリシューラが嫌がるなら、もうしない。トリシューラ以外の相手とは直接口をきかないようにするし、メールは事務連絡以外はしない。視界フィルタリングの強度を上げて、余計なものにフォーカスしないように設定する。設定管理はトリシューラがしてくれていい」

 

                                                                                          4-2 風の吹く丘

  つまりこうだ。性加害はよくない。他者を性加害をもってコントロールしようとすることは許されない。ただし、同意が取れている場合を除く。*4

 シナモリアキラは男性だが、すべての人間に対して同じラインを引いていると考えていいと思われる。

 

 ぼくが気になってしまったのは以下だ。

「キモイキモイキモイめっちゃキモイ! そんなところジロジロ見るなんてサイテーだよ! うわーんセスカー! アキラくんに視姦レイプされたー!」

 

「よしよし。つらかったですね。大丈夫ですトリシューラ。貴方の価値はこんなことで揺るがされたりしませんから」

 

「おい、ちょ、待て待て待てそんなつもりは」

 

 慌てて弁明を試みるが無駄だった。

 ぎろりと二人分の視線が突き刺さり、強制的に黙らされる。

 

「ひどいよアキラくん。私、確かに生殖機能は無いけど、だからってそんなところジロジロ見られたらやだよ」

 

「そんなつもりは無くとも『そう見られる』こと自体が誰かを傷つけることがあるのです。邪視まなざしというのは、意志によって制御されずとも呪力を持ってしまう。アキラは今、視線でトリシューラを殴りつけたのです」

 

「すみませんでした」

 

                                                                                                4-19 予兆

 

 まなざし論の学問的妥当性はここでは議論しない。*5気づかずに他者を加害している場合があるから気をつけようね、ぐらいの一般論として受け取っておく。

 そのすぐあと、以下の文章が続く。

  ぐうの音も出ない。トリシューラの気持ちを考えると無遠慮に過ぎたし、視線の専門家であるコルセスカにそう言われると呪術的にも納得できた。

 申し訳ない気持ちで死にたくなっていると、トリシューラとコルセスカが何か顔を寄せ合って耳打ちし合っている。この状況で内緒話されると死にたくなるのだが、何を話しているのだろう。「やっぱり」とか「去勢」とかいう声が漏れ聞こえてくるのだが、後半怖すぎないだろうか。

 

 性加害良くないよね、という話をした直後にこれは、どうなんだ。冗談めかしてはいるが、いや、冗談めかしているからこそ基準がよくわからなくなってしまった。この後の展開でも、トリシューラは何度も去勢という言葉を口に出す。邪悪な魔女と邪悪な男根主義者の違いとは。

 いや、まあ、わかる。邪悪な魔女と邪悪な男根主義者は違う。これは「同意を得ずにスケベ行為を行った男性が報復される」というエンターテインメントの文脈だ。わかる。が、いや、しかし。

 

 

『アリュージョニスト』は倫理的な作品で、良質のエンタメだ。だからこそ、ちょっとした部分が気になってしまった。

 「そもそも倫理的ではない作品の非倫理性」を楽しむことができればよかったのだが、ぼくの観測範囲で「倫理!」と持ち上げる向きがあり、どうもそれも難しく、いろいろ悩んだ末、結局読むのを止めてしまった。どうでもいいですね。インターネット止めるべき。おしまい。

 

以上、ご確認の程よろしくお願いします。

*1:糾弾する意図がある場合は「苦手」ではなく「嫌い」と表現する

*2:邪悪な創作論をしました

*3:そもそもの問題として、去勢で性的興奮がなくなるということはない

*4:意思疎通のできない相手については別途考える必要がある

*5:作者自身はレトリックとして持ち出しただけで理解しているようだが